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The Game Changer

試合の流れを一気に変える人--ゲームチェンジャー。物事の流れを根底から覆し、人々の暮らしや社会、企業活動などに変革をもたらす……。
歴史のダイナミズムとは、そのようなゲームチェンジャーたちによる挑戦の結果によるものかもしれません。
現代社会を揺り動かすゲームチェンジャーとはどのような人たちなのか。
変革をもたらす視点、独自の手法、ゴール設定、モチベーションをいかに維持するか等々、変革に挑戦した者だけが語ることができる物語を紹介します。

2020年4月21日

第13回
元ラグビー日本代表
大畑大介氏

「ラグビーがみんなの近い存在になってほしい」
W杯で高まったエネルギーを保つ活動を続ける

 2019年の秋はラグビーワールドカップで日本中が湧いた。これまでラグビーに興味がなかった人たちも、日本代表のすばらしい活躍でファンに転じ、日本全体でラグビー熱が高まった。大会アンバサダーを務めた元ラグビー日本代表の大畑大介氏は、「想定以上にラグビーに関心を持つ人が増えた」と喜ぶ。これからもラグビーファンを増やす活動に取り組んでいくという大畑氏に、ラグビーの魅力や自身が選手として何を目指し、何を獲得してきたのかなどについて聞いた。

大会アンバサダーとしてW杯の盛り上がりを後押し

――ラグビーW杯は日本代表チームの活躍で盛り上がりました。「One Team」が流行語大賞にも選ばれるなど、大会は大成功でした。

大畑 世界三大スポーツイベントのひとつに数えられるくらいのイベントですから、世界中から観客が集まり、かなり盛り上がるとは思っていました。ただ、日本でのラグビー人気はいまひとつで、大会アンバサダーを務める僕もメディアでの露出回数を増やしてW杯をアピールしてきたつもりです。そして日本代表が目標としていた決勝トーナメント進出、ベスト8まで勝ち進んだことで、一気に火が付いたという感じでしたね。
 僕自身は1999年と2003年、大会直前の試合で怪我をしたために出場こそできませんでしたが2007年のW杯で日本代表として活動した経験があり、当時からの日本代表のチームスタッフから「かつてないほどチームの状態がいい」ということを聞いていたので、しっかりとW杯に向けての準備ができていると確信していました。なのでベスト8に進出したことは、特段の驚きではありませんでした。ヘッドコーチのジェイミー・ジョセフとも現役時代に一緒にプレーした仲ですが、外側から見ていても表情が明るく、選手の雰囲気も良かったので、結果は自ずとついてくると思っていました。

 想定外だったのは、たくさんの人がラグビーに目を向けてくれ、どんどん大会が盛り上がっていったことです。多くの人がラグビーのこと、日本代表のことを話題にしてくれました。自分がラグビー選手だったからというひいき目ではなく、こんなにラグビーで盛り上がってくれるんだ、と嬉しかったですね。

――大畑さんは小学校3年の時にラグビースクールに通い始め、それから今までずっとラグビーに関わっています。ここまで続けられた理由は何ですか?

大畑 常に「自分を成長させたい」と思ってきました。僕は大阪の下町で生まれ育ち、周りの男の子は皆が野球をやっていて、しかも全員阪神ファン。そんな環境の中で、皆と同じになるのが嫌でした。ただ、やはり友だちは欲しかったので、何か自分に目を向けてくれるものはないかな、と探した結果、父が高校時代にやっていたラグビーにしようと。
 その頃は、正月に父がテレビでラグビー中継をよく見ていて、当時の新日鉄釜石で活躍していた松尾雄治さんが僕のヒーローでした。引退試合でチームメイトに担がれてグラウンドを一周するのを見て、「カッコええな」と。それでラグビーやろうと決めたんです。

 自分はちょっと変わった子でしたね。他人と同じことはやりたくないけど、他人からは注目されたい。僕が入ったラグビースクールは早くからラグビーを始めている子供たちも多く、僕は小学校3年生の時にチームに入ったのですが、それは、前から入っていた子どもたちのコミュニティに入っていくということ。初めて練習に行った日は、もちろん友達などいないので、引っ込んでいました。けれども、先ず始めにグラウンドの端から端まで全力で走る練習があって、僕が走ったら一番速かった。そうしたら知らない子どもたちが僕に目を向けてくれましたね。「名前なんて言うん?」「どこから来たん?」と。一瞬で溶け込めました。「これだ!」と思いましたね。

他人のベクトルを自分に集めることだけを考えた

――その後、ラグビースクールを中学生でも続け、高校から大学、社会人へと続けることになります。これはラグビーが楽しかったから?

大畑 ラグビーが楽しいと思ったことはなかったですね(笑)。最初に「これだ!」と思って、ラグビーを通じて自分を表現できると気づいたので、ラグビーを続けることで少しでも高みを目指して、自分を成長させていくことが大切だと思っていました。競争は他人のベクトルに自分を合わせること。そうではなく、自分の特徴を生かして成長し、他人のベクトルを自分に集めることばかり考えていたわけです。

 高校へはラグビーで進学したかった。しかし中学時代に地区選抜などに選ばれた経験がない僕には、どこからも声がかかりません。その時考えました。「どこからも声がかからないということは、逆に自分から選べるということだ」と。苦し紛れの“逆転の発想”です(笑)。また、強豪校はチームが出来上がっていて、その枠に当てはめられるのは嫌だったので、これから強くなることを目指しているチームにしようと。東海大学付属仰星高校に入りましたが、ラグビー部には地区選抜を経験した選手もいる。僕は無名でしたから、とにかく人一倍練習に打ち込みました。
 その結果、チームのレギュラーとなり、高校の日本代表にも選ばれました。けれどもそれは怪我人が出た補充。高校代表として海外遠征に行きましたが、ベンチにも入れず試合を撮影する記録係をやらされて、悔しかったですね。その悔しさから、同期の誰よりも早く、日本代表になるという目標ができました。

大学時代「日本一になる」とチームメイトを“洗脳”

――高校日本代表になったことから、ラグビーのエリート街道を驀進と……。

大畑 確かに多くの大学から勧誘がありましたが、まだ自分は高いところにいけるはずと思っていました。自分の進む方向を自分で選べるようになった時に、父が言っていた「AとBで迷ったら、しんどい方を選べ」という言葉を思い出しました。自分を成長させるためにはさらに辛い方を選ぼうと。それで当時、日本で一番の練習量といわれていた京都産業大学に行くことを決めました。
 京産大は関西では優勝できるけど、全国大会では上位には進出できても優勝には届かないという状況。絶対に僕らの代で全国優勝しようと必死でした。「日本一になる」を合言葉にチームを鼓舞していました。中には「日本一なんて無理だ」というチームメイトもいましたが、「俺らは練習量では日本一といわれてる。とにかくできることから日本一を目指そう」と言い続けました。

 主将になって決めたことは、チームリーダーとして明確な目標を示すこと、チームリーダーとしてブレない存在になる、チームの一体感を作る―の3つ。「日本一、日本一」と言い続けたら、不思議ですね、だんだんそれが当たり前になって一体感が出てきました。決定的に一体感を高めたのは、皮肉にも主将の僕の怪我でした。僕が主将に選ばれた時に「僕ら4年生は全員がキャプテンだ」と話し合っていたので、チームを離れても不安はありませんでした。むしろ僕が抜けたことで、それぞれがチームのためにできることを、より主体的に考え、特にそれまで試合に出られなかった4年生ががんばってチームを盛り立ててくれました。
 結局、準決勝で関東学院大学に負けて、日本一はかないませんでした。負けた原因は、勢いのあったチームに、怪我明けで復帰した僕のパフォーマンスが足りなかったからだと思っています。

――大学時代に日本代表にも選ばれ、もはや頂点を極めたという実感はありましたか?

大畑 大学生で日本代表に選ばれた時も、これもまだ自分の成長過程と思っていましたので、桜のジャージの重みはあまり感じませんでした。実はその時も怪我人が出てその補充だったので(笑)。
 ポジションはCTB(センター)でしたが、補欠で選ばれているのに、「WTB(ウイング)やらしてくれ」と、生意気にもアピールしました。アピールといえば、大学時代にセブンス(7人制ラグビー)の日本代表合宿があるということを聞きつけて、いきなり日本ラグビー協会に電話して「僕を選んでください」と直訴したこともあります。そしてセブンスの代表に選ばれて壮行会に出席した時、隣に座ったのが神戸製鋼の平尾誠二さんでした。平尾さんが「君が大畑君か。彼女いるんか?」など他愛もない話ばかりでしたので、緊張したかというと、全然しませんでした。ただ、「すげぇオーラのある人だな」とは思いましたが。
 大学時代に日本代表に選ばれたこともあり、トップリーグの社会人チームからのたくさんの誘いをいただきました。中にはポジションを空けて待っているという誘いもありました。でも僕としては、「もっと成長したい。自分を表現したい」の一点張りでしたから、そういうチームに行くと居心地がよく、成長にも限界があるのではと考えました。唯一、神戸製鋼の平尾さんが、「実績は認めるけど、ウチに来たら実力でポジション取ってくれ」と、誘っているんだか誘っていないのかわからないような言い方で(笑)。「そこならもっと上に行けそうだ」と考えて神戸製鋼に入ることを決めました。当時は勝てないとはいえすごいメンバーが揃っていましたから、このチームに入って主役になったら、日本でナンバーワンのプレーヤーになれるかも、という欲も出てきました。

――神戸製鋼といえば平尾”という時代でしたね。

大畑 平尾さんについては強烈な思い出があります。自分の中でターニングポイントだと思っているのが1998年。1996年に代表に選ばれましたが、97年に大きな怪我をしてプレーヤーとして伸び切らない自分がいました。代表チームメンバーのポジションを失いたくないという思いが先に立って、どうしてもプレーが消極的になってしまっていたんです。自分の持ち味であるスピードがまったく生かせない、試合中ボールを触りたくない、という状態でした。それを見ていた代表監督の平尾さんに呼ばれて、「お前、何がしたいんや」「どうなりたいんや」と。それで目が覚めました。吹っ切れた後は、その試合で2トライを挙げることができました。  本当に平尾さんは僕にとっては太陽のような人でした。この人についていけばなんとかなる、自分も成長できると思わせるような人でしたね。

引退を宣言し灰まで燃え尽きるほど完全燃焼

――どんなスポーツでも、どんなに優れた選手でも引退の時は来ます。いつかは来るとはいえ、自分で身を引くという決断は難しいのではないでしょうか。

大畑 引退は意外と早くから意識していました。2007年のW杯を代表に選ばれながら怪我で出場できず、外から試合を見ていて、引退を考え始めました。その後、神戸製鋼の主将も務め、2009年にはW杯の日本開催が決まり、選手代表として会見に出席しましたが、2019年に現役でいることはないと思っていました。その時から、自分のミッションはラグビーの普及啓蒙だと考えるようになりました。それでW杯のアンバサダーも引き受けたわけです。結局、2010-11シーズンを最後に引退することを決め、シーズンの初めにそれを宣言しました。

 大きな怪我もあって、もはや体はボロボロ。いつ壊れてもおかしくなかった。ただ怪我をして引退というだけは嫌だったので、最初から宣言しておこうと。「ラグビー=怪我」というイメージをなくしたかったというのもあります。引退を宣言して皆でカウントダウンしましょうと。
 最終試合を前に、練習の後にトレーナーにマッサージしてもらいながら話したことを、今も明確に覚えています。「大畑さんボロボロになるまでよくがんばりましたね。ただ、膝の怪我をしなかったから、ここまでできたんですね」と言うんです。大学時代に一度膝を怪我しましたが、それ以後は無傷。「ホンマやなあ」なんて返していたんですが、最終戦でその膝を怪我してしまった。なんだか灰になるまで燃え尽き、完全燃焼できたんですね。

――これからもラグビーの普及啓蒙活動や広報活動は続きますね。

大畑 W杯でラグビーのメディアへの露出が増えましたが、その熱量を維持し続けるためにも、“大畑大介”というものが消えることはよくないと考えています。W杯の1年前は、こんなにラグビーが盛り上がるなんて誰も予想していませんでした。ラグビー界でも、W杯の成功がまずゴールにあったので、社会全体でこんなにラグビーに対するエネルギーが高まるなんて予想していなかったんじゃないかな。
 W杯が終わって、一気にその熱が冷めてしまわないように、これからもラグビーに注目してもらい、いつまでもラグビーが皆さんに近い存在であってほしい。そのために“大畑大介”という存在が役に立つならば、できる限り協力していくつもりです。

プロフィール
大畑 大介(おおはた・だいすけ)氏
元ラグビー日本代表

1975年11月生まれ。大阪府出身。小学校3年でラグビーを始め、東海大付属仰星高校、京都産業大学を経て神戸製鋼入社。ポジションはウイング、センター。神戸製鋼コベルコスティーラーズ時代には、日本のオフシーズンに豪州でプレー。2002年に神戸製鋼を退社し渡仏。2003年神戸製鋼に復帰。2011年現役引退。通算キャップ数(日本代表の国際試合出場数)は58、代表通算トライ数は69。2016年には日本人2人目の「ラグビー殿堂入り」。2019年ラグビーW杯アンバサダーのほか、東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会アスリート委員会委員。テレビやラジオをはじめメディアへの出演を通じて、ラグビーの普及啓蒙、広報活動に携わる。

撮影:清水タケシ
監修:株式会社日経BPコンサルティング
記事中の意見・見解はNECフィールディング株式会社のそれとは必ずしも合致するものではありません

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