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The Game Changer

試合の流れを一気に変える人--ゲームチェンジャー。物事の流れを根底から覆し、人々の暮らしや社会、企業活動などに変革をもたらす……。
歴史のダイナミズムとは、そのようなゲームチェンジャーたちによる挑戦の結果によるものかもしれません。
現代社会を揺り動かすゲームチェンジャーとはどのような人たちなのか。
変革をもたらす視点、独自の手法、ゴール設定、モチベーションをいかに維持するか等々、変革に挑戦した者だけが語ることができる物語を紹介します。

2019年7月29日

第12回
農業生産法人GRA代表取締役CEO
岩佐大輝氏

東日本大震災で傷ついた故郷の力になりたい!
一粒1000円のイチゴに託した復興への想い

 東日本大震災で変わり果てた故郷の姿を目の当たりにした瞬間、当時東京でIT実業家として成功していた岩佐大輝氏は、自分の人生に「変革の時」が訪れたと直感した。故郷は、仙台市の南方約30キロに位置する宮城県亘理郡山元町。イチゴが名産の、のどかな田舎町だった。しかし2011年14時46分、全てが変わった。4000余棟の家屋が全半壊し、イチゴ畑の約95%が流された。そして町人口の5%に相当する、約700名の貴重な命が失われたのだった。故郷の復興のために何かをしなければ。いや山元町に、そして東北全体に、震災前以上の元気をもたらす事こそ自分に課せられた運命だ。山元町名産のイチゴを武器にした、岩佐流東北再創生プロジェクトは、こうしてスタートした。

小学生でPCプログラミングのとりこに

――小学生時代には既に起業家精神が芽生えていたとか。

岩佐 趣味に関するお小遣いは与えない教育方針を持つ両親に育てられました。小学生当時ファミコンが大流行したのですが、僕だけが買ってもらえない。だったら自分で買うしかないなと、四年生の頃新聞配達のアルバイトを始めたのです。1日十数軒に配って毎月5~6000円のお給料がいただけました。小学生には夢のような大金でしたね。自分のお金は自分で稼ぐ。今に至る私の起業家精神は、この経験を通して形成されたのかもしれないと考えています。その後、とある友人との出会いでパソコンの存在を知り、そちらの方により興味をそそられました。通販で4万円位の中古パソコンを購入、専門誌と首っ引きで言語を勉強しました。元来好きな事はとことん突き詰めないと気が済まない性分です。自分がプログラムを書いたソフトウェアが、自分を超えた能力を発揮する「万能感」に感動し、ますますプログラミングの世界にのめりこんで行きました。中学生のときには待望のNEC-PC98を購入、いっぱしのプログラマー気分を満喫しました(笑)。高校は仙台第一高等学校に進学しましたが、インターネットの登場に衝撃を受けました。世界全体が机上でつながる奇跡を自宅で体験できる。この先とんでもない時代がやって来そうだ、絶対乗り遅れないようにしなくてはと、心に誓いました。

東京で起業、そしてMBA取得へ

――その後大学には進学せず上京されました。

岩佐 最初の2年間はプログラマーとしてソフトウェアやホームページ製作の下請けをしながら、何となく過ごしてしまいました。喪失感も覚えるようになり、これではいけないと大学進学をようやく決意、駒澤大学経済学部に入学しました。大学では特に「禅」の勉強に打ち込みました。仏教系の大学ならではの経験ですね。私なりの、人間の心に自由をもたらしてくれる、捉われない・とどまらない・かたよらない無の感覚、空の感覚の研究は、今でも私の経営精神を支えてくれています。

 そして2002年、24歳の時にシステムやソフトウェアを受託開発する法人、有限会社ズノウ(現株式会社ズノウ)を創業、私のビジネス人生の幕が上がりました。しかし私はプログラマー出身で、経営に関しては正直素人同然です。大学こそ経済学部を卒業しましたが、学んだのは禅の心のみでしたし(笑)。会社と大勢の社員をいかに守るか。もう自己流の経営術は通用しない。ズノウの経営戦略を立てるためにも、体系的な学習が必須と判断、MBA取得のための勉強を始めました。2010年の事になります。学校は働きながら学位取得を目指せるグロービス経営大学院を選びました。当時の生活は働いては勉強しての繰り返しで、体力的にはかなりきつかった。しかし、大学院では私と同世代の、同じ志を持った多くの友人との出会いに恵まれました。ファイナンスなどテクニカルな勉学にもいそしみましたが、彼らとの人生論などを通じて、自分の社会的なポジションも相対的に把握できるようになり、人生の目標やこれからの課題を明確に理解できるようになりました。よき友人でありライバルでもある彼らは、今でも私の大切な財産ですね。

運命の日、2011年3月11日

――そして岩佐さんの人生に変革の時が訪れました。

岩佐 あの日は、当時臨月を迎えていた妻が、出産のため故郷の福島県相馬市に帰省した当日でした。そろそろ着く頃合いかな、なんて東京の自宅で考えていた14時46分、大きな揺れに襲われたのです。東日本大震災の発生です。ニュースを通じて震源地や津波の情報が続々と入ります。故郷に近い、いや近すぎる。大変な不安を覚えました。妻の帰省先が、私の故郷宮城県山元町が今どのような状況下にあるのか。もちろん現地と電話が通じるはずもなく、安否はようとして知れません。特に山元町には震災直後にメディアが入らなかったので、まったく情報が伝わりません。

 いてもたってもいられなくなった私は、翌日早々車に救援物資を満載して山元町を目指しました。そして津波に飲み込まれ破壊しつくされた郷土との再会に至ったのです。あるべき場所に懐かしい故郷の姿はありませんでした。自分を育ててくれた緑豊かな山野が消えていました。もちろん町名産のイチゴ畑は跡形もない。私は呆然と立ち尽くす他ありませんでした。自分のアイデンティティが一瞬の内に喪失してしまった。これからどうすればよいのか。途方に暮れたとしか、あの時の心中を表す言葉を私は知りません。

 しかし幸いな事に両親との再会はすぐに叶い、間もなく妻たちの健在も確認できました。途端、ホッとする間もなく、自分の心に「故郷を何とかしなければ」という強い思いがわき上がって来たのです。経営大学院の親友たちが、早速手を差し伸べてくれました。すぐさまボランティアチームを結成、山元町のイチゴ畑の泥かきに打ち込みます。述べ100人を超える仲間たちの、故郷への惜しみない協力を、私は一生忘れません。ボランティア活動を継続しながら、私は具体的な故郷復興へのアイデアを考え始めていました。自分のプロフェッショナルな分野を活かす事で、どのような故郷への貢献が可能になるのか。地元の方々や仲間たちと一緒に、今自分たちにやれる事を話し合いました。目標は復興のみならず、今まで以上に元気な故郷の創生です。故郷創生のための有力なコンテンツは何なのか。話し合った人々の実に7割もの方々が、口をそろえて言いました。「山元町はイチゴの町である」、と。

そしてMIGAKI-ICHGOが誕生した。

――生産から販売までをコントロールする、イチゴ産業の新ロールモデルを作られた。

岩佐 よし、イチゴで故郷復興だ!とは言っても、私や私の方針に同調してくれる友人たちは、揃って農業の素人でした。どうすれば美味しいイチゴが育つのかなんて、皆目検討がつかない連中ばかりです。しかし、山元町には長年にわたり美味しいイチゴ作りの技術を今に伝えるマイスターがいらっしゃいます。カンや経験を通じて、どうすれば再び美味しいイチゴが収穫できるようになるのかを熟知している先輩方です。早速、実践的な知恵をイチゴ栽培歴40年のベテランにお伺いしたのですが、「15年、俺の後ろについて来い」と。う~ん、いささか時間が長すぎますよね(笑)。

 そこで着手したのが、自分の得意分野であるIT技術と伝統的な農業とのコラボレーションでした。2011年7月、意を同じくする仲間たちと現在私の活動の中心となる、農業生産法人・GRA(General Reconstruction Association)を設立。先人の匠の技と先端技術の融合による、山元町の新たなイチゴ生産プロジェクトが始まりました。塩害を受けた地に高設養液栽培システムや一貫した管理システムを導入するなど、IT技術をフル活用し品質の向上と生産性の向上、品質の安定の実現に成功したのです。

 震災から約2年後の2012年12月、GRAは両者の結晶である「MIGAKI-ICHIGO」の発売に至りました。一粒一粒を愛情込めて丹念に作り上げた逸品の印として、ダイヤモンドの原石を磨き上げる作業に例えて「ミガキイチゴ」と命名しました。製品ロゴタイプにもダイヤモンドイメージを採用しています。この取り組みは、幸いにもメジャー流通業も注目するところとなり、一粒1000円の値がつけられたMIGHAKI-ICHIGOが飛ぶように売れたニュースが話題となりました。GRAのイチゴ展開は現在さらに進化、スパークリングワインを筆頭にコスメ開発など、多商品化展開を急速に進めています。

 2011年の震災発生から、MIGAKI-ICHIGO誕生までの期間はわずか2年弱に過ぎません。現代の事業は、展開のスピード感が成否の命運を握ると考えています。今日の常識が明日の非常識に成りえる現代のビジネスシーンにとって、絶え間ないPDCA(プラン・ドゥ・チェック・アクション)の連続展開は企業の成長に欠かせない行動原理です。故郷復興への熱い情熱と、明晰なビジネス感覚の融合があってこそ、MIGAKI-ICHIGOプロジェクトは成し遂げられたのだと確信しています。

そしてプロジェクトは未来に受け継がれる

――イチゴ栽培に参加される方々が、増加中とか。

岩佐 2015年から、今後のMIGAKI-ICHIGOの生産パートナーと成っていただく方々の育成を目的に、新規就農支援システムに取り組んでいます。技術は常にオープンであるべき、がGRAの方針です。MIGAKI-ICHIGOの発展が、故郷を始めとする雇用の増加に貢献出来るのは、この上ない喜びであると私は考えています。支援システムは、全国から参加者を募り1年間の研修期間を経て、MIGAKI-ICHIGOファーマーとして独立していただくプランです。商品流通や技術支援を通じてwin-winの経済構造を築く試みです。

 ファーマーが生産しGRAの品質検査をクリアしたイチゴは、全量私どもが買い取ります。もちろんMIGAKI-ICHIGOの生産量の増加は、新たな商品展開へとつながり、故郷創生への大きな貢献となるわけです。これまでに15名ほどの就農者が誕生し、GRAとのコラボに協力いただいています。今年も10名近くの仲間たちが、このプロジェクトに参加されました。人生のゲームチェンジを令和の農業に託す人々は、今後ますます増加する事でしょう。
 また、これまでC to Cだった商品流通の、C to Bビジネスへの挑戦を開始しました。東京の数ヶ所でカフェを展開、MIGAKI-ICHIGOのカジュアルブランドである「いちびこ」スイーツをメインに、可愛いグッズ販売も仕掛けるなど、イチゴのブランド戦略に挑んでいます。生産者が販路まで持つ事での安定性の確保を模索するなど、生産から消費まで、イチゴ一気通貫ビジネス展開を確立したいと願っています。

若きビジネスピープルたちへ伝えたい事

――最後に、人生の変革を考えている若きビジネスピープルたちへアドバイスを。

岩佐 日本社会固有のステップ・バイ・ステップ的な思考は、堅実ではありますが古い旧習の中に自らの価値観を封じ込め、目の前にあるビジネスチャンスに気づかない愚を犯す事につながりかねません。今の世の中は、皆さんが考えるよりもはるかに早いスピードで進化しています。今日の最善手が明日には敗着の一手になっても不思議はないのです。だから若い方こそ、人生の決断は電光石火を以てよし、とされる事をお勧めします。悩んでいるうちに、ビジネスチャンスは通り過ぎてしまいます。計量的な分析を冷静かつ速やかに行い、成算ありと判断したら即刻挑戦に移る実行力が肝要です。また、自らの仕事に社会的な使命感を感じるよう努めて下さい。自分の仕事を楽しんで下さい。その事で湧き上がる仕事へのモチベーションは必ずスキルアップへとつながり、皆さんを明るい未来へと導いてくれる事でしょう。頑張って下さい!

プロフィール
岩佐 大輝(いわさ・ひろき)氏
農業生産法人GRA代表取締役CEO

1977年宮城県亘理郡山元町生まれ。1996年仙台第一高等学校卒業。2002年、ソフトウェア開発会社有限会社ズノウ設立。2011年東日本大震災を機に故郷復興を願って農業法人GRAを創業、一粒1000円の値を付けた「MIGAKI-ICHIGO」の成功で、一躍東北創生の寵児と呼ばれる存在に。現在は、6つの法人の代表を勤めながら、週のほとんどを東京と山元町を行き来しながら、残った時間で海外に出張し新規ビジネスモデルの模索を続ける毎日。

協力:いちびこ太子堂店
撮影:西山輝彦
監修:株式会社マージーサイド
記事中の意見・見解はNECフィールディング株式会社のそれとは必ずしも合致するものではありません

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