フィールディングEyeNECフィールディングがお届けする百花繚乱のコラム集

The Game Changer

試合の流れを一気に変える人--ゲームチェンジャー。物事の流れを根底から覆し、人々の暮らしや社会、企業活動などに変革をもたらす……。
歴史のダイナミズムとは、そのようなゲームチェンジャーたちによる挑戦の結果によるものかもしれません。
現代社会を揺り動かすゲームチェンジャーとはどのような人たちなのか。
変革をもたらす視点、独自の手法、ゴール設定、モチベーションをいかに維持するか等々、変革に挑戦した者だけが語ることができる物語を紹介します。

2018年08月02日

第8回
ジュビロ磐田監督
名波浩氏

個の力を集約して、組織として力を発揮する
そこに日本サッカーの魅力と強みがある

元サッカー日本代表のジュビロ磐田監督 名波浩氏にインタビューしました

2018FIFAワールドカップロシア大会はフランスの優勝で幕を閉じた。日本代表はグループリーグ初戦のコロンビア戦に勝ち、1勝1敗1分けのHグループ2位で決勝トーナメントに進出。トーナメント初戦のベルギー戦では後半に2-0とリードしたものの逆転負け。熱心なサポーターやサッカーファンならずとも、悔しい思いをしただろう。世界で戦うことの難しさを知る一人が、ジュビロ磐田監督の名波浩氏。かつて日本代表として戦う中で、日本のサッカーを世界レベルに引き上げることを模索してきた。今、選手としてのキャリアの大部分を過ごしたジュビロ磐田で指揮を執る。

日本に足りないのは“悔しさの数”

――日本代表はベルギーに惜しいところで逆転負けを喫しました。日本代表の戦いをどのように見ていましたか。

名波 後半になって2-0とリードし、これからゲームの中で疲労が出てくる時間帯、どういうふうにゲームが動いていくか、という矢先の失点でした。それも不運なことに、狙っていないシュートで得点された。あの直後に、もう一度日本のリズムに持っていくというのは非常に難しいと思いました。
  決勝トーナメントでは一度も勝てていない日本として、何か他に手立てがあったのかどうか。サッカーファンやメディアはいろいろ言いますが、私は西野朗監督が考えていたゲームプランは正しいと思っています。プラン通りの展開に持っていけていたと見ていました。
 ただ、後半2-0とリードしているところを1点返されて、前がかりで攻め立てるベルギーに対して引き気味になった面はある。そこで攻撃に転じるというスイッチの入りが鈍くなったのは間違いないですね。しっかり固めて守る、守備で頑張ろうというスイッチが入ったかもしれない。
 あの1点で、日本がリードを守らなければという意識と、ラッキーな1点から追いつくぞと思ったベルギーの意識の違いが大きかったと思います。

2018年FIFAワールドカップ、ベルギー戦について語る名波浩氏

 1点を取られた後にどう立て直すかが大事ですが、ベンチから大声で叫んでもピッチの中にいる選手は聞こえない。あの局面で、私なら選手の一人を呼んで指示を与えて、「皆に伝えろ」という方法を選びますね。
 キャプテンに伝えてチームに伝えてもいいし、選手交代のタイミングをうまく使って交代選手に指示を出してピッチに伝えるという方法もある。もちろん西野監督はそれをやっていたはずですが。

――W杯の雰囲気は今も昔も変わりませんか。

名波 1993年に“ドーハの悲劇”を経験し、97年は“ジョホールバルの歓喜”で初めて日本代表がW杯に出場しました。
 それまで日本代表は誰もW杯のピッチに立っていなかったわけです。当時は、メディアが大挙して押し寄せてあることないこと書き立てて、ということはありませんでした。もっとも、選手も関係者もサポーターも、皆がフワフワしていた感じは否めなかったですね。

FIFAワールドカップフランス大会での名波氏
FIFAワールドカップフランス大会での名波氏
写真:AFP/アフロ

 今回のロシア大会で6大会連続の出場ですから、もはやフワフワしている雰囲気がなく、「勝つ」ということに集中できたのではと思います。複数回出場しているベテランが引っ張って、チームは全体的に落ち着いていただろうし、ほどよい緊張感とそれを楽しむという状態が皆に浸透していたのではないでしょうか。
 私にとってもフランス大会はターニングポイントになりました。グループリーグで全敗したことで、世界の壁を目の当たりにしました。それでヨーロッパのクラブに移籍することを決意したのです。
 ただ、我々の後の世代が育つにつれて、少しずつ変わっていったと思います。98年のフランス大会の時、香川真司選手などはまだ子どものころでした。2002年の日韓大会は、子どもだった宇佐美貴史選手や原口元気選手が見ていたはず。そうした子どもたちがサッカーでのし上がってきて、ヨーロッパのクラブに移籍するなどの経験を積んできたことで、世界との差が小さくなってきていることは事実でしょう。
 日本代表チームはベスト8進出を前にして涙を飲みました。ベスト8はとても大きな壁です。例えば、メキシコは7大会連続で決勝トーナメントに駒を進めましたが、その間は一度もベスト8に残っていません。また、パラグアイは南アフリカ大会で日本にPK戦で勝ってベスト8に進みましたが、決勝トーナメントではまだ一度も得点したことがありません。中南米のチームでさえそうなのです。
 今回、決勝トーナメントで2点を挙げた日本は、確実に階段を昇っているわけですが、優勝経験のあるアルゼンチンや準優勝が3回のオランダもグループリーグで敗退した時がありました。その悔しい思いをした国が力を発揮して、決勝まで進んだり、優勝したりする。アジアの大会では悔しい思いをたくさんしている日本ですが、世界では悔しい思いの数はまだまだ少ないんですよ。

日本代表の重圧をバネに戦う

――名波さんが高校生や大学生だった時、日本代表に招集されチームの一員になることを目指していましたか。

名波 もちろんです。ただ、学生の頃に日本代表に選ばれたいと思い始めた時は、自分が活躍して有名になりたいな、というただそれだけ。動機は不純でしたね(笑)。

 ただ、少しずつ試合に出させてもらう中で、「これはしがみつかないといけないな」と感じるようになりました。“ドーハの悲劇”については、皆さんピッチとかメディアの前では言わないけど、宿舎で聞けば話してくれる。先輩たちも悔しい思いを背負って戦ってきたんだなと感じました。

 日本代表に選ばれると、日の丸を背負って戦うという重み、責任をものすごく感じました。W杯予選に勝って本戦に進まなければ、というプレッシャーや緊張に押しつぶされる感覚を味わいました。
  それでも、日本で一番サッカーがうまいヤツらの中に選ばれてピッチに立っているという、震えるような緊張感は、味わってみると捨てがたいんですよ。重圧もすごいけど、それをバネにできるという、二面性を持ち合わせている集団なのです。代表チームというのは。
 レベルの高い集団の中で挑戦できるという喜びと、経験を積んでいくことで、若い選手が入ってきた時に彼らにそういうものを伝えていかなければいけないなという思い。外から見ると地位や名誉が先行しがちな感じですが、実際はそんなものじゃないということを、その場に入ったことで感じることができました。
 最初に代表チームに合流した時、“ドーハの悲劇”を経験した選手がたくさんいたので、「スゲェな、サインもらって帰ろうかな」と思いましたよ。「負けられないぞ」とは思いませんでした。正直に言うと、「これが最初で最後かな。もう呼ばれないかもな」なんて思ったものです。

名波浩氏に日本代表時代の思い出を語っていただきました
ジュビロ磐田での選手時代
(C)Jリーグ

――現役を引退されてからインターバルがあり、2014年シーズンの終盤にジュビロ磐田の監督に就任されました。

名波 テレビの解説などをやりながらも、いつか監督をやりたいと思っていたので、S級コーチの資格を取得しました。その時が来るのを待っていたという感じでしょうか。

ジュビロ磐田の監督になった経緯を語る名波浩氏

 実はジュビロ磐田からオファーが来る前に、他のチームとの話がまとまりかけていました。オファーがもう少し遅ければアウトでした。そのチームとの契約では、待遇面では今よりももっと良かったのです(笑)。
 ジュビロ磐田からオファーが来て、家族と相談しました。オファーを受けるかどうか、最後に背中を押してくれたのは妻の一言です。浜松市内に自宅を買って、セレッソ大阪や東京ヴェルディ1969に移籍している間もその家は残しておきました。なぜ残していたのか。妻が「いずれジュビロ磐田に戻ってくるつもりだったのでしょ」と言うのです。それが決定打でしたね。
 当時、ジュビロ磐田はJ2に降格していて、J1復帰を目指していましたが、微妙な位置でした。監督を引き受けましたが、私はコーチの経験もない。ジュビロサポーターは期待してくれたかもしれませんし、それは大変ありがたいことなのですが、それを感じている余裕もありませんでした。監督を引き受けた後、J1昇格をかけたプレーオフで相手GKにゴールを決められて敗退という前代未聞の経験もしましたし。監督にはなったものの、厳しい状況だったといえます。

監督の心得は「6:2:2の法則」

――これまでクラブや代表チームで名波さんが影響を受けた監督はどなたですか。

名波 フランス大会の時の監督は岡田武史さん。岡田さんの影響が大きいかそうでないかといえば、それほど大きくはないかもしれません(笑)。接している時間もそれほど長くなかったですし。
 ただ、心に響いたことはたくさんありました。岡田さん自身が代表選手やコーチとしてたくさんの経験をされています。その経験を選手に伝える時の話術はすごいなと思いました。それと決断の早さ。さらに選手と共に成長したいという強い気持ちですね。
 1998年の代表当時、何度か監督室に呼ばれて戦術の話を聞きました。普通は全体ミーティングやコーチングスタッフのミーティングで話すことです。一人ひとり選手を呼んで、話したり意見を聞いたりする。そんな監督は初めてでした。当時、プロになって4年目でしたが、そんな監督はいませんでした。

 一人の選手である私が呼ばれて、「これどう思う?」と聞かれても、監督に向かってどうこう言えないじゃないですか。「岡田さんがそう言うなら、それでいいんじゃないですか」なんて受け流していたら、「なんだ、その言い方は!」なんてやりとりがあったくらいです(笑)。
 岡田さん以外では、2002年にジュビロ磐田が1stステージ、2ndステージともに優勝で完全制覇した時(当時は前半後半の2ステージ制)に監督だった鈴木政一さん。今、J2のアルビレックス新潟の監督をされていますが、鈴木さんも岡田さんと同じように、選手と一緒にチームを育てたいという思いの強い監督でした。ジュビロ磐田のような地方クラブで予算も潤沢ではない中で、チームを強くしたいと選手とスタッフが同じ思いを持っていたことが強さにつながりました。

名波浩氏に監督の心得を語っていただきました

 “ドーハの悲劇”の時の代表監督だったハンス・オフトさんも印象が強い一人です。私が現役を引退する時にはジュビロ磐田の監督に戻っていました。その時に言われたことが、「早く監督をやれ」ということと、「チームづくりには6:2:2の法則がある」の2つ。
 「6:2:2の法則」とはこういうことです。
 「チームのうち、60%の選手は監督の方を向いてくれる。20%は、どうせ試合に出られないし、出場機会を求めて移籍もしたいしケガもしたくないし、とそっぽを向いている。残りの20%がどっちつかずにいる。その最後の20%を監督の方に向かせたらチームは一つにまとまる」
 今回の代表チームでは、西野監督が本田圭佑選手や香川選手、岡崎慎司選手といったベテランでキャリアのある選手を自分の方に向かせることにパワーを集約させていたのではないでしょうか。それが早い段階で自分の方に向いてくれたので、チームビルディングはすごく楽だったのだと思います。プロの選手たちを束ねて同じ方向を向かせ、チームビルディングするのは実際大変なのですよ。

――名波さんはそのチームビルディングに苦労されながらも、2017年シーズンは6位、今シーズンも中断前までの段階で8位と上位をキープしています。

名波 2018年シーズンで監督5年目。ジュビロ磐田では最長の監督在任となりました。ここまでやってこられたのは、結果至上主義ではなかったことが良かったのかなと思っています。主力選手やスタッフには、「勝敗度外視で楽しければいいよ」と話しています。それで結果もついてきています。だからこそ、ジュビロ磐田の監督はまだ続けたいと思いますね。海外の代表チームでも10年以上チームを率いている人がいます。日本は4年周期とかでコロコロ変わるけど、良ければずっと続ける方がいいと思うし、日本代表に入りたいというよりも、「あの監督のあのサッカーをやりたい」と思う選手がいてもいいと思うんです。

ジュビロ磐田の監督になった経緯を語る名波浩氏

 今回のロシア大会を見ても、日本のサッカーは国際基準にまだまだ達していません。ヨーロッパのクラブに移籍する選手が増えて、着実に成長はしているけどまだ足りません。
 日本の社会構造やサッカー環境を考えれば、メッシやロナウドは生まれてきません。でも悲観することはありません。組織力で勝つことが日本のストロングポイントだと思います。メッシやロナウドがいない以上、個の力に頼るようなサッカーはできません。

 個の力を集約して、組織として力を発揮するところに日本のサッカーの良さがあり、そこにこそ伸びていく力が秘められている。日本のサッカーを強くするためには、日本サッカー協会も代表チームも、Jリーグの各チームも、組織力をしっかり磨いていくことが大切です。

プロフィール
名波 浩(ななみ・ひろし)氏

ジュビロ磐田監督 元サッカー日本代表
「1972年生まれ。静岡県藤枝市出身。子どものころからサッカーに熱中。“サッカー王国”静岡にあってサッカー一筋。藤枝市内の小中学校から名門の清水商業高等学校を経て順天堂大学に進学。95年ジュビロ磐田に加入し、すぐにレギュラーとして活躍。98年日本代表の一員としてFIFAワールドカップフランス大会に出場。日本代表の「10番」を背負う。W杯後、イタリアACヴェネツィアに移籍。1年後ジュビロ磐田に復帰。2006年シーズン後半からセレッソ大阪に期限付き移籍。07年2月東京ヴェルディ1969に期限付き移籍。翌年ジュビロ磐田に復帰しシーズン終了をもって引退。ジュビロ磐田のアドバイザーを務めるとともにテレビのサッカー解説などに携わる。14年シーズン終了直前に当時J2に降格していたジュビロ磐田の監督に就任。

撮影:清水タケシ
監修:株式会社日経BPコンサルティング
記事中の意見・見解はNECフィールディング株式会社のそれとは必ずしも合致するものではありません

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