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おとなの歴史再入門

2021年06月23日

江戸時代の麻疹と天然痘の流行と種痘を広めた佐賀藩

第9回
江戸時代の麻疹と天然痘の流行と種痘を広めた佐賀藩

河合 敦=文 Text: Atsushi Kawai
野村 美也子=イラスト Illustration: Miyako Nomura

 新型コロナウイルスによる感染症が世界中に蔓延しているが、歴史を見ると過去に何度も感染症のパンデミックが起こっていることがわかる。

 たとえば奈良時代の天平七(七三五)年、海外から入ってきた天然痘(疱瘡ほうそう痘瘡とうそう)が猛威をふるい、人口の約三十%が罹患して亡くなったという。このとき政権を握る藤原四子(不比等の四人の子)も全員亡くなり、生き残った公卿の橘諸兄たちばなのもろえがたまたま実権を握った。このように、感染症は政治の世界にも影響を与える。

 「平家にあらずんば人にあらず」といわれるほど大きな権力を手にした平清盛も、急に熱病に冒され短期間で絶命した。インフルエンザの可能性が指摘されているが、これにより平氏政権の瓦解がかいが早まったのは間違いないだろう。

 江戸時代の五代将軍・徳川綱吉も感染症のために死去したが、代わって将軍になった甥の家宣は、ただちに生類憐みの令を廃止、それまでの政治方針を大きく転換した。綱吉を死に至らしめた病は、麻疹ましん(はしか)だった。当時、麻疹に効く薬は存在せず、主に食事によって病の改善をはかった。かんぴょうや切り干し大根、小豆、砂糖、どじょう、ひじきなどが麻疹に良いとされ、逆に里芋、椎茸、空豆などは禁物とされた。もちろん、医学的根拠は皆無だ。江戸時代に流行の波は十三回発生しており、文久二(一八六二)年には約二十四万人が命を落としたという。

 だが、さらに致死率が高く、とくに多くの子供の命をうばったのが、冒頭で述べた疱瘡(天然痘)だ。この病は疱瘡神(疫病神)がもたらすと信じられ、我が子が疱瘡に罹らぬよう、鍾馗しょうき源為朝みなものためともとなど強い英雄を描いた疱瘡絵をお守りに持たせたり、運悪く麻疹になったときは枕元に疱瘡神を祀る祭壇をつくったりした。

 疱瘡は紀元前から存在する感染症で、世界中で猛威をふるってきたが、一度罹患して回復すると二度と感染しない。さらに患者の発疹(水疱性)の膿に触れると、やはり罹患しないことがわかっていた。そこで古代から体を傷つけ患者の膿を入れたり、発疹のかさぶたを鼻から吸い込み病を防ぐ人痘法がおこなわれてきた。ようは生ワクチン接種による免疫獲得である。だが、人痘法で本当に天然痘にかかってしまい、命を落とす人も少なくなかった。日本でも江戸時代に試みられたが、うまくいかなかった。

 そうしたなか一七九八年にイギリスのジェンナーが牛痘種痘法という安全で画期的な方法を発表する。牛にも天然痘に似た牛痘(感染症)があり、その膿(牛痘苗)を体に入れると、水疱性の発疹が現れる。その発疹の膿をまた人に接種すると、同じく発疹が現れるのだが、接種した人々はいずれも天然痘に罹患しないことを発見したのだ。こうして人から人へ種痘していくのが牛痘種痘法である。

 この接種法は、十九世紀初めに海外の書籍を通じて日本の医師の間にも知られ、来日したドイツ人医師・シーボルトも具体的な方法を弟子の蘭方医たちに教授した。すでにオランダの植民地・東南アジアなどでは種痘が始まっていた。だが、日本には牛痘苗が入ってこなかった。

 そして弘化こうか三(一八四六)年、佐賀藩で天然痘が大流行。時の藩主鍋島直正は名君として知られ、西洋技術の導入に積極的な人だった。そこで侍医の伊東玄朴げんぼくの進言を受け入れ、領民に種痘を行うことを決意、翌年、長崎にいる藩医・楢林宗建ならばやしそうけんに牛痘苗を入手するよう命じた。宗建は出島のオランダ商館にも出入りを許された名医で、商館長のレフィスゾーンに牛痘苗を取り寄せてくれるよう依頼。こうして嘉永元(一八四八)年、商館医モーニッケがバタビアから牛痘苗(牛痘漿)を持ってきてくれた。そこでさっそく牛痘接種を試したが、水疱は現れず、失敗に終わってしまう。

 翌年、オランダ船が再び牛痘苗を運んできた。宗建はモーニッケの指導のもと、連れて来た三人の乳児に種痘をおこなった。うち一人にはっきりと水疱が現れたのである。我が国で初めて牛痘法に成功した瞬間だった。しかも成功した乳児というのは、宗建の息子であった。宗建はただちに鍋島直正に連絡するとともに、次々と子どもたちに牛痘苗を接種し、その数を増やしていった。

 なお、直正は牛痘苗が到着すると、領民がワクチン接種を恐れないよう、なんと率先して我が子・淳一郎に接種したのである。大した人物である。これにより佐賀藩では急速に種痘が広まった。

 いっぽう長崎では牛痘苗の植え継ぎが行われ、それらは各地に運ばれ、越前藩や水戸藩などでも種痘が広まった。また、大坂でも蘭学塾「適塾」を経営する緒方洪庵が嘉永二(一八四九)年に大和屋喜兵衛の出資で大坂に除痘館をつくり、無償で種痘を始めた。これを評価した江戸幕府は慶応三年、除痘館を官立として事業を拡大した。

 一九八〇年、天然痘は撲滅されたが、それまでには楢林宗建や緒方洪庵、鍋島直正といった医療従事者や政治家たちの懸命な努力があったことをぜひとも知ってほしい。

プロフィール
河合 敦(かわい・あつし)氏

1965年東京都出身。歴史作家・歴史研究家。多摩大学客員教授、早稲田大学講師も務める。テレビ番組『世界一受けたい授業』のスペシャル講師などでも活躍。『変と乱の日本史』『日本史は逆から学べ』(ともに光文社知恵の森文庫)、など著書多数。

【監修:株式会社日経BPコンサルティング】
記事中の意見・見解はNECフィールディング株式会社のそれとは必ずしも合致するものではありません。

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