フィールディングEyeNECフィールディングがお届けする百花繚乱のコラム集

おとなの歴史再入門

2021年02月24日

北里柴三郎と福沢諭吉の友情

第7回
伝染病との闘いに打ち勝った北里柴三郎と福沢諭吉の友情

河合 敦=文 Text: Atsushi Kawai
野村 美也子=イラスト Illustration: Miyako Nomura

 北里柴三郎は内務省にいた明治十八(一八八五)年、三十二歳で国費によりドイツに留学、結核菌を発見したコッホのもとで細菌学を研究し、世界で初めて破傷風菌の純粋培養に成功した。そのためケンブリッジ大学やペンシルベニア大学から誘いがあったが、日本の感染症予防に寄与したいと考え、明治二十五(一八九二)年に三十九歳で帰国した。ところが、古巣の内務省に伝染病研究所の設置を強く訴えたが、実現の見込みが立たず、途方にくれてしまう。そんな窮状を救ったのが福沢諭吉であった。諭吉は事情を知ると、私財を投じて研究所を設立してくれたのである。翌年、柴三郎は日本初の結核専門病院・土筆ヶ岡つくしがおか養生園を開設するが、諭吉が土地を提供し、資金調達の手助けをしてくれたうえ、教え子の田端重晟しげあきを事務長に派遣してくれた。

 養生園では患者のために牛を飼い搾乳していたので、感謝の意を込めて柴三郎は福沢邸へ牛乳を届けさせていた。ある日、牛乳瓶にわずかな汚れを見つけた諭吉は、田端に次のような手紙を認めた。

「この瓶の汚れが、養生園のすべてを語っている。患者に出す食事はいい加減で、園内の薬局は怠慢、医師の診察も不親切なのだろう。あなたたちは有頂天になっている。偉業を志す者は、一生必死に努力しても、ようやくその半分しか達成できないもの。なのに何たることであるか」

 この諫言を田端から聞いた柴三郎は仰天し、ただちに諭吉のもとに出向いて平謝りに謝った。そして、一メートル半に及ぶその書簡を額縁に入れ、所長室に掲げて自戒としたという。

 明治二十七(一八九四)年、柴三郎は内務省の命でペストが流行する香港に調査へ出向き、世界で初めてペスト菌を発見した。そこで、同行の医師数名がペストに罹患する。この報に接した諭吉は内務省へ出向き「北里を殺してはならぬ。学問のために大切な男だ」と役人たちに帰国させるよう迫り、香港の柴三郎には「スグカエレ」と電報を送った。まるで我が子のように心配していたのだ。

 柴三郎も諭吉を慕い、諭吉が脳出血で倒れると自ら主治医を選んで治療態勢を整え、症状が改善すると自分のことのように歓び、再発後は詰めきりで看護した。死去した際には「師父を失ひたるの感あり」(『北里柴三郎伝』北里研究所)と、ひどく落胆したという。

 伝染病研究所はめざましい成果をあげたので、明治三十二(一八九九)年から内務省の所管となっていたが、大隈重信内閣は行財政整理の一環として、大正三(一九一四)年、所長の柴三郎に相談なく、研究所を東京帝国大学に付属させることに決めた。

 研究所の目的は感染症の原因を探求し、その予防と治療法の開発にあたることにある。ゆえに教育を目的とする大学とは相容れない。柴三郎は激しい怒りを覚え、辞職を決意する。ただ職員には、「あなたたちは前途有望だ。進退は慎重に考え、これからも国家のために努力してほしい」と述べた。

 ところが所員たちは皆、安定した職を投げ打ち、柴三郎の後を追って辞職したのである。彼らは研究所ではなく、柴三郎のために働いていたのである。引退を考えていた柴三郎はこれに勇気づけられ、部下と研究を継続することを決意。その年に私設の北里研究所を立ち上げた。翌年には芝区白金三光町に立派な建物が完成するが、柴三郎は莫大な資金を投じた。それができたのも、諭吉のお陰だった。生前、諭吉は柴三郎に「政府の方針が変わったときに備え、いつでも独立できるよう金を貯めておけ」と繰り返し忠告してくれたので、柴三郎は大金を貯め込んでいたのである。

 大正六(一九一七)年、柴三郎は請われて慶應義塾大学の医学科(医学部)創設にかかわり、大正九年十一月、開校式が挙行された。時の総理大臣原敬も来賓として訪れるなか、医学科学長の柴三郎は「予は福沢先生の門下では無いが、先生の恩顧を蒙ったことは門下生以上である。故に不肖報恩の一端にもならんかと、進んで此の大任を引き受けたのである。我等の新しき医科大学は、多年医界の宿弊たる各科の分立を防ぎ、基礎医学と臨床医学の連携を緊密にし、学内は融合して一家族の如く、全員挙って斯学の研鑽に努力するを以て特色としたい」(『前掲書』)と挨拶した。

 教授陣には北里研究所の北島多一、志賀潔、秦佐八郎といった日本を代表する研究者や医者をあて、自ら陣頭に立って学生を指導したが、報酬は一切受け取らなかった。このように、諭吉が柴三郎に施した大恩は、その死後、確かに返されたのである。

プロフィール
河合 敦(かわい・あつし)氏

1965年東京都出身。歴史作家・歴史研究家。多摩大学客員教授、早稲田大学講師も務める。テレビ番組『世界一受けたい授業』のスペシャル講師などでも活躍。『変と乱の日本史』『日本史は逆から学べ』(ともに光文社知恵の森文庫)、など著書多数。

【監修:株式会社日経BPコンサルティング】
記事中の意見・見解はNECフィールディング株式会社のそれとは必ずしも合致するものではありません。

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