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おとなの歴史再入門

2020年01月24日

反逆者・明智光秀

第5回
実は愛されていた!?反逆者・明智光秀

河合 敦=文 Text: Atsushi Kawai
野村 美也子=イラスト Illustration: Miyako Nomura

 明智光秀は、主君の織田信長に謀反を企て殺害した武将だ。そのため、逆臣のイメージが定着している。ところが1月19日に放送開始したNHK大河ドラマ「麒麟がくる」では、主人公として活躍する。どんな人物として描かれるのかが楽しみだ。

 そんな光秀の前半生だが、一次史料(当事者の日記、手紙、文書等)は残っていない。現存するのはすべて二次史料(一次史料以外のもの)か伝承の類いだ。
 それらによれば、美濃の名族土岐氏の血筋を継ぎ、居城の明智城(岐阜県可児市)を斎藤義龍よしたつ(道三の息子)に攻め立てられて浪人となり、放浪ののち越前の朝倉義景よしかげに五〇〇貫文で雇われたとされる。浪人としては驚くべき好待遇だが、鉄砲術や築城術などが高く評価されたからだという。やがて越前に来た将軍足利義輝よしてるの弟・義昭と親しくなり、彼が幕府再興を望んでいるのを知ると、尾張の信長との間を取り持ち、以後、将軍となった義昭と信長に両属して活躍するようになったとされる。

 近年の研究では、美濃出身の可能性は高いが、土岐氏の出というのは自分を飾るため光秀が創作したもので、越前にいたかもしれないが、朝倉側の史料に光秀の名が見当たらないことから家臣ではなかったという説が有力になっている。義昭と信長の仲介をした逸話も否定的な意見が強く、光秀は単なる美濃の土豪で、義昭の重臣・細川藤孝の家来だったと唱える学者もいる。

 光秀は愛妻家で側室を持たず、妻の煕子ひろこも光秀の客人をもてなすため、自分の髪を切って売ったという逸話がある。一次史料は存在しないが、側室を持った痕跡はなく、病気になったとき、互いに平癒のための祈遖アを公家に依頼していることから、仲の良い夫婦であったことは確かだと思う。

 光秀の一次史料が登場するのは永禄十二(一五六九)年のこと。義昭と信長に両属して京都支配の一翼を担っていたようで、寺社への安堵状などが登場する。また、二次史料だが信憑性の高い太田牛一の『信長公記』にも、同年、三好三人衆が義昭のいる本圀寺ほんこくじを包囲したとき、光秀が戦ったと書かれている。それからわずか二年後の元亀げんき二(一五七一)年、延暦寺の焼き打ちでの中心的な活躍により信長から近江国志賀郡を与えられ、坂本城を築いた。織田の家臣としては初めての城持ち大名で、光秀は一番の出世頭となった。なぜ信長は光秀を重用したのか。宣教師ルイス・フロイスは、その理由を次のように記している。

 「(光秀は)その才略、深慮、狡猾さにより、信長の寵愛を受け」「己を偽装するのに抜け目がなく」「誰にも増して、絶えず信長に贈与することを怠らず、その親愛の情を得るためには、彼を喜ばせることは万事につけて調べているほどであり、彼の嗜好や希望に関しては、いささかもこれに逆らうことがないよう心掛けた」(『日本史』フロイス著 松田毅一訳 中央公論社)。これが事実ならば大した策士だが、才知に長けた武将という解釈もできる。だからこそ信長に抜擢されたのだろう。
 その後、義昭と信長の関係が悪化すると光秀は義昭を見限り、天正三(一五七五)年から丹波攻めの総大将となり、苦労の末、天正七(一五七九)年に丹波一国を平定した。

 国持ち大名となった光秀は、福知山城下を整備したが、治水のため堤防(明智藪)を築いたり、税を軽くするなど、いまも福知山では名君としてたたえられている。そうした善政を施したにもかかわらず、天正十年五月、信長は光秀から丹波を取り上げて秀吉の中国攻めの応援を命じたのである。さらに気に入らないと光秀に暴力を振るったという。光秀が信長を憎悪したのは当然だろう。このため謀反の理由として怨恨説が根強いが、新たな文書の発見により、四国征伐回避説が注目されている。

 土佐の長宗我部元親は、光秀の仲介で織田氏と同盟を結んでおり、信長は元親が四国を平定するのを了解していた。ところが長宗我部氏が本当に四国を平定しそうな勢いを見せると、信長は態度を変え、「土佐一国と阿波半国しか認めない」と言い出したのだ。仕方なく光秀が長宗我部側にそれを伝えると元親は激怒。すると信長は長宗我部(四国)征伐に動きはじめる。困った光秀は元親を説得、元親も信長の出した条件を飲んだ。それにもかかわらず、信長は方針を撤回せず大坂に大軍を送り、四国へ渡海させようとした。これでは光秀の面目は丸つぶれであり、自分の失脚につながる可能性もある。苦しい立場に立たされた光秀は、ついに謀叛に及んだという説だ。

 さらに、三重大学教授の藤田達生氏は、光秀は旧主の足利義昭の命を受けて信長を倒したと唱える。近年、それを匂わす文書も発見されている。このように光秀の逆臣というイメージは、研究の進展によって変わりつつあるのだ。

プロフィール
河合 敦(かわい・あつし)氏

1965年東京都出身。歴史作家・歴史研究家。多摩大学客員教授、早稲田大学講師も務める。テレビ番組『世界一受けたい授業』のスペシャル講師などでも活躍。『変と乱の日本史』『日本史は逆から学べ』(ともに光文社知恵の森文庫)、など著書多数。

【監修:株式会社日経BPコンサルティング】
記事中の意見・見解はNECフィールディング株式会社のそれとは必ずしも合致するものではありません。

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