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おとなの歴史再入門

2019年12月04日

本能寺の変の真実

第4回
本能寺の変の真実とは?

河合 敦=文 Text: Atsushi Kawai
野村 美也子=イラスト Illustration: Miyako Nomura

 明智光秀は、どうして主君の織田信長を京都の本能寺に襲ったのか。

 残念ながらその理由を記した光秀の書簡や日記は存在しない。ゆえに動機については、さまざまな説がとなえられてきた。
 昔から有力なのは、光秀が信長に遺恨を抱き、それを晴らすため謀反に及んだというもの。怨恨の要因は、上洛した徳川家康の接待役で失態を犯し信長に折檻されたからとか、母親を人質に差し出してある武将を降伏させたのに、信長が彼を成敗したので光秀の母も殺されたためといった説が知られている。

 だが、近年は「光秀の背後に黒幕がいる」という説が多数登場しているので、いくつか紹介しよう。

 まずは朝廷黒幕説。信長は、正親町おおぎまち天皇に皇太子の誠仁さねひと親王へ譲位するよう迫っていた。というのは、誠仁の子・五の宮を自分の猶子にしており、将来は五の宮を天皇にすえ上皇になろうと考えるようになったから。これを知って仰天した近衛前久や吉田兼見ら公家たちが、勤王家である明智光秀を誘って信長を殺害させたというのだ。

 対して研究者の藤田達生氏は、信長に京都から追放された将軍足利義昭が首謀者だとする。義昭は毛利氏の庇護をうけ備後国鞆にいたが、旧臣の光秀を動かしたのだとする。

 このほか徳川家康、豊臣秀吉、本願寺顕如、イエズス会などが黒幕としてあがるが、こうした黒幕説に真っ向から反対するのが鈴木眞哉氏と藤本正行氏だ。彼らの共著『信長は謀略で殺されたのか』(洋泉社)では、数々の黒幕説(謀略説)について反証史料や状況証拠をあげ、各説の矛盾を突いて否定している。
 両氏は、本能寺の変は光秀の単独犯行と断定する。織田家の重臣たちは遠方各地で戦っており、手元に大軍を有していた光秀は、信長を確実に京都で討てると考え、単独で謀反に及んだとする。

 同じく谷口克広氏も黒幕説を否定したうえで、要因の一つとして四国政策の転換をあげる。
 土佐の長宗我部元親と信長は友好関係にあり、当初、信長は元親の四国領有を容認していた。両家の仲介をしていたのは光秀だった。ところがその後、信長が急に態度を変え、四国征伐を決定。本能寺の変の際には、織田軍はまさに四国へ渡ろうと大坂湾に集結していた。このため光秀は苦しい立場に立たされ、謀反に及んだのだという。

 諸説のなかで、私が興味を持つのは「野望発作説」(私の命名)である。

 信長の京都滞在は早い段階で決まっていたが、織田家当主の信忠(信長の嫡男)が京都に来ることがわかったのは本能寺の変の約二週間前。これを知った時点で、光秀は「謀反」を意識するようになったのではないかという説だ。
 その動機だが、光秀も下剋上の世に生まれた武将ゆえ、天下をとろうとしても不思議はない。
 ちょうど信長父子が京都に来る。しかも護衛は多くても数百人。「今なら信長を倒せる!」そう発作的に思い立ってしまったのではないか。つまり、光秀に魔が差したわけだ。

 本能寺の変後、光秀は与力大名さえ味方につけることができぬまま、中国地方から引き返してきた羽柴秀吉にあっけなく倒されてしまっている。これを見ると、とても周到な計画を立てたうえでの行動とは思えず、やはり謀反は突発的、発作的な行為だったというのが最も史実に近いのではなかろうか。

 ただ、明智光秀の子孫・憲三郎氏は、ベストセラーとなった著書『本能寺の変431年目の真実』(文芸社文庫)で、「光秀は信忠が京都に居たことを知らなかった」と述べている。このように本能寺の変の真相をめぐっては、今も続々と新説が登場している状況なのである。

 今後も驚くような新説が出てくることだろう。そうしたことを通じて、世の中に歴史好きが増えることは、たいへん良いことだと思う。

プロフィール
河合 敦(かわい・あつし)氏

1965年東京都出身。歴史作家・歴史研究家。多摩大学客員教授、早稲田大学講師も務める。テレビ番組『世界一受けたい授業』のスペシャル講師などでも活躍。『変と乱の日本史』『日本史は逆から学べ』(ともに光文社知恵の森文庫)、など著書多数。

【監修:株式会社日経BPコンサルティング】
記事中の意見・見解はNECフィールディング株式会社のそれとは必ずしも合致するものではありません。

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