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おとなの歴史再入門

2019年06月28日

龍馬を英雄にしたのは誰?

第2回
龍馬を英雄にしたのは誰?

河合 敦=文 Text: Atsushi Kawai
野村 美也子=イラスト Illustration: Miyako Nomura

 坂本龍馬は、織田信長と並ぶ日本で一番人気のある偉人だ。しかし戦前はそれほど知られた人ではなかった。明治になる前に殺されてしまったうえ、龍馬の出身、土佐藩の有力者が「明治六年の政変」(1873年)で政府から下野してしまったこともあり、薩長同盟や大政奉還における龍馬の功績は忘れ去られてしまっていた。
 そんな忘却の彼方に置かれた男を国民的英雄にしたのは、歴史作家の司馬遼太郎である。司馬の長編大作『竜馬がゆく』によって、坂本龍馬は一躍英雄になったのだ。

 このように司馬作品に取り上げられて、知名度がいきなりアップした人物は少なくない。龍馬と同じ時代に活躍した新選組副長の土方歳三もその一人だろう。じつは1950年代までは、新選組と聞けば、ほとんどの人は局長の近藤勇のほうを思い浮かべていた。土方は、局長の近藤を引き立てる脇役に過ぎなかった。
 たとえば新選組の映画がはじめて上演されたのは大正3年(1914)年のことだが、そのタイトルは『近藤勇』(日活)である。
 これ以後、たびたび新選組映画が作成されるが、いずれも主人公は近藤で、阪東妻三郎や大河内伝次郎、片岡千恵蔵、月形竜之介など、蒼々たる顔ぶれが近藤役を演じたが、いっぽうで土方を主役にした映画は皆無だった。
 そうした状況を一気に変え、土方歳三を歴史上のヒーローに仕立て上げたのは、1962年から司馬が『週刊文春』に連載を始めた土方を主人公とする『燃えよ剣』であった。これを機に知名度は急上昇。さらにNET(現テレビ朝日)の『新選組血風録』(1965年)や『燃えよ剣』(1970年)で歳三を演じた栗塚旭がはまり役となり、土方人気はさらに高まったのである。

 いっぽうで、司馬遼太郎の作品によってその評価が貶められた英雄もいる。その代表が乃木希典であろう。
 乃木は、日露戦争で第三軍を率いてロシアの旅順要塞を攻撃した陸軍の司令官である。戦前は、好きな偉人ランキングのベスト・テンに入るくらいの高い人気をほこっていた。戦前生まれの私の母親などは、幼い頃に「ノギサンハ エライヒト」といって遊んだと言っている。これは、「だるまさんがころんだ」と同じ遊びらしい。乃木は明治天皇に殉じたことで、神として乃木神社に祀られ、忠臣の手本として国定教科書にも掲載されていた。

 しかし司馬は、『坂の上の雲』や『殉死』、『要塞』といった作品で、乃木の軍事的無能さに繰り返し言及したのである。たとえば、『要塞』という作品のなかで司馬は、乃木と伊地知幸介(第三軍参謀)について、「乃木と伊地知は、なおも二〇三高地に攻撃の主眼を置こうとはせず、頑固に最初の強襲攻撃の方針をすてず、連日おびただしい死を累積させつつあり、そういう乃木や伊地知のすがたは、冷静な専門家の目からみれば無能というより狂人というにちかかった」と記している。確かに乃木は、ロシアの旅順要塞を攻略するため、たびたび正面からの総攻撃をおこない、多大な犠牲を出して撤退をくり返していた。

 そこで参謀本部次長の児玉源太郎は、「まずは二〇三高地を攻略し、ここから砲撃を加えて旅順を落とすように」と強く第三軍に伝達したが、一向に言うことを聞こうとしない。そこでたまりかねた児玉は、自らが戦場へ出かけていって、乃木から指揮権を奪い、わずか数日後に二〇三高地を攻略、旅順を降伏に追い込んだ、そう司馬は書いている。

 だが、乃木のために弁解するなら、陸軍首脳部は「旅順要塞など簡単に落とすことができる」と過小評価し、第三軍に不十分な武器・弾薬しか持たせていなかったのである。また、近年の軍事史研究では、初めから二〇三高地を陥落させても、無傷のロシア軍にすぐに奪還されてしまうのは明らかであり、もし二〇三高地に全力を向けていたら、東北方面のロシア軍が左翼や背後から日本軍に迫り、全滅した可能性さえあるという。つまり、乃木の正面攻撃は、あながち間違いではなかったわけだ。

 さらに驚くべきは、二〇三高地の攻略が本当に児玉源太郎の功績かどうか、最近の研究では怪しくなっているのだ。このように、歴史研究の進展や小説作品などによって、偉人たちの評価というのは、大きく変化してしまうのである。なかでも戦後の司馬作品の影響力は絶大だといえよう。

プロフィール
河合 敦(かわい・あつし)氏

1965年東京都出身。歴史作家・歴史研究家。多摩大学客員教授、早稲田大学講師も務める。テレビ番組『世界一受けたい授業』のスペシャル講師などでも活躍。『変と乱の日本史』、『日本史は逆から学べ』(ともに光文社知恵の森文庫)など著書多数。

【監修:株式会社日経BPコンサルティング】
記事中の意見・見解はNECフィールディング株式会社のそれとは必ずしも合致するものではありません。

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